番外編 喜緑江美里シリーズ その1

 涼宮ハルヒについて俺が何を知っているのかと言えば、具体的なところは何も知らないと言ってしまっても良いだろう。
 当然、性格や言動が斜め上なんて事は、もやは北高生徒レベルにとっても常識である。だが、俺達が巻き込まれるアホな異常事態が一体どうやって生まれるのか、その点については、俺も、長門も、古泉も、当然朝比奈さんも知らないのだ。
 ハルヒの力。それは時に、全知全能に思える宇宙人にすら、予期が不能であるという。
 
喜緑江美里の段差
 
「ここに段差が欲しいわよねっ」
 すべてはこの一言から始まった。何だって?
「段差よ。まったく市の道路保全事業課は何をしてるのかしら」
 毎度の如く何を言いたいのかサッパリわからん。ダンサーがどうした?
「分かんないの? ほら、ここよ。溝があれば、一面水浸しなんて事にならないじゃない」
 なるほど。言いたいことは解った。
 見れば、坂道のふもとから交差点にかけてが、先程まで降っていた夕立の影響で水浸しだ。ハルヒが言っているのは、道路の途中に排水溝へと続く溝の一本もあれば、水が逃げてこんな事にはならない、ということのようだ。
 ――ちなみにハルヒの奴、ついさっき通り掛かりの自転車に水しぶきを食らって、いたくお怒りである。
「ふん。まあいいわ、早く帰って乾かしたいし。じゃあねっ」
 ハルヒはそう言うと、さっさと帰っていった。おや、怒りの矛先がこちらに向くかとも思ったのだが。
 
 ところが、矛先は実にハルヒらしい場所へと向いていた。
 ハルヒが一足先に帰り、俺は読みたい雑誌が発売日だった事もあり、すぐ傍のコンビニで濡れたシャツが乾くのを待っていた。一通り立ち読みし終え外に出る頃には、雲の隙間に見える夕日が町並みへ沈もうとしていた。
 さて帰るか、と一歩踏み出し――俺は段差につまずいて、二歩三歩とつんのめった。何かと見れば、数十分前にハルヒが指差した、まさにその場所である。
 ……まいったね。行政へ連絡も無しにこんな土木工事、許されるのか? 直すにも直せないし、今後夕立の際には役に立つだろう。うーむ、ハルヒの力が世の役に立つというこの事実、意外性全開でどう受け止めれば良いのやら。
 
 まさに、その溝を凝視しつつ、唸っていた丁度その時である。
「え?」
 声を上げて、誰かが溝につまずいた。さっきの俺のように。そしてそのまま万歳をするように諸手を上げ、鞄を放り出し、長い髪の毛を振り乱して、笑ってしまうくらい見事に、うつぶせにずっこけた。あまりの事態に俺も動けない。ここまで綺麗に転ぶ奴はそうそう居ないだろうさ。
 って、この人は――
「……大丈夫ですか? ええと、喜緑さん?」
 ウエーブのかかったロングヘアーが水に濡れて、扇状に広がっている。この様子では制服もびしょびしょだろう。喜緑さんらしき北高生徒は、ゆっくりと起き上がり、ぼんやりと俺を見上げる。
「どうも、こんにちは」
 そんな挨拶をしてる場合ですか。その、制服がずぶ濡れでですね……。
「あら、本当」
 喜緑さんは立ち上がると、意外と豊満な制服の胸の辺りを摘んで、
「ふふ」 妙に妖艶に笑った。「いやだ。そんなに見ないで下さい」
 いや別にそんなつもりは、と言うか見てませんから。……それより大丈夫ですか。
「ええ」
 すると何を思ったのか、喜緑さんは突然ブラウスを脱ぎだした。思わず仰け反る俺。ちなみにここは天下の往来。奇妙な雰囲気の人だとは思っていたが、こんな突拍子も無い事をするとは。どこかお淑やかなだけに、意外も意外である。ていうか一体何を!?
「いえ、誰もいませんから」
 俺が居ますが……。
 洗濯物を干すかのようにパンと音を立ててブラウスを広げると、喜緑さんはすぐそれを着込んだ。濡れた髪の毛に指を通すと張り付いていたロングヘアーがさらさらとした質感を取り戻す。足下の鞄はいつの間にか乾いているようだった。
「ん。すみません、お待たせしました」
 別に待っていた訳でも無いんですがね。
「そうですか。ところで、この段差は涼宮さんが作った物のようですね。データベースに無いものでしたので、驚いてしまいました。お騒がせして申し訳ありません」
 別にお騒がせしては無いと思いますがね。
「ありがとうございます。では、服も乾きましたし、私はこれで。あ、そうそう、長門さんにリソースをあまり無駄遣いしないようにお伝え下さい。例えば、脱水するのに情報操作したりとか」
 ぺこり。喜緑さんは優雅に一礼をして颯爽と去っていった。あんなに見事にずっこけた割に。
 
 ……ええと、今のはなんだったんだ一体。