涼宮ハルヒの憂鬱番外編 朝倉涼子の誘惑シリーズ その5

朝倉涼子の誘惑12
「おはよう」
 朝っぱらから真っ平らな挨拶に、俺は振り返った。
 もちろんそこに居るのは長門有希。高校へと続く坂道の、ようやく五号目というところであろうか。どうやら走ってきた様子だが、足音のひとつも聞こえやしなかった。ひょっとしたら常に1センチくらい浮いているのかもしれない。
「よう、珍しいな」
 頷く長門。登校時に一緒になるのは稀だ。帰りはよくあるんだがな。
「話がある」
 話? また何かあったのか?
「そう」
 また随分と朝からヘコむ展開だ。で、今度は何か。ハルヒがひな壇に座りたいと駄々こねているのか、コンピ研が奴隷解放を訴えてでもいるのか、それとも宇宙人あたりが巨大戦艦で攻めてきたか。
「……宇宙人」
 冗談で付け足した最後が当たりだったらしい。マジかそれ。
「まじ」
 山荘の時みたいな奴か? それともバレンタインの時の……は未来人か、似たようなものだが。ちなみに言っとくがどれもお断りだ。
「違う」
 長門は僅かにかぶりを振って、どっちにしろお断りな、その名を告げた。
 
 とまあ、これが何と今朝の話である。情報思念体などというヤツだから、人間の情緒など理解できる筈も無いだろうが、それにしたって早急すぎるのではなかろうか。
 そう、侘び寂びが無いんだよ。最近はアメリカ人だって理解するぞ。
 アイツと最後に遭ったのなんて、ついこのあいだ。だがそんな事はお構い無しに、ただ立場が使いやすいという理由だけで復帰させると言うんだろうか。
 まあ、なにせ5月まではクラス委員だったわけで、ついでにカナダからの帰国子女と言えば、ハルヒの興味を引くのも当然だろう。既に転校生成分の薄れた古泉の代わりとなる新たな玩具の降臨に、キラキラ……いや、ギラギラ目を輝かせるハルヒが容易に想像できる。
 もちろん俺は自分の身の安全について問い質した。すると長門は、まるで手品のように、手のひらに小さなボールを生じさせた。
 プロテクトキー。アイツの能力の大部分を停止している権限は、長門にある。だから心配いらない、という断言。だがな、そんな言葉と理屈で心底納得できるなら、この世にセラピストやらネゴシエーターなんて職業は存在しないだろうよ。
 岡部がのそのそと教室に入ってくる。あの谷口が何も言ってなかったのを省みるに、その帰還はまだ誰にも知らされていないようだ。よく見れば、どんな風に紹介しようかとニヤニヤしている岡部の様子が判る。極めて不気味だ。
「えー、突然だが、転校生がいる」
キョン!」
 思ったより平凡な岡部のグリーンシグナルに、ハルヒはフライング気味のスタートを切った。言うが早いか平手で俺の後頭部を叩き、襟首を引っ張り、頭が痛え息が苦しいんだよこのバカ。
「あのな、転校生が謎とは限らないのは、古泉を見りゃ解るだろうが」
「だってこんな年度も差し迫った時期に転校なんておかしくない?」
 以前にも似たような科白を聞いた事があるな。
 ガラガラと無粋な音を立ててドアが開き、姿を現したエセ転校生に、教室中が沸き立った。
 ……いや、何と言うか、もうそのまんま。どこから見ても呆れるほどに朝倉涼子である。
 
 美人で頭脳明晰、人当たりも良く、ついでに帰国子女で転校生な朝倉。当然と言えば当然だが、丸一日中ひっきりなしでクラスメイトの質問攻めに遭っていた。今は瀬能、剣持あたりと楽しげに話している。
 長門の情報操作とやらでカナダに引っ越した事になっていた事実。その辺りの話も合わせてあるに違いない。バンクーバーの学校に通っていた、日本食が恋しかった、英語が上手くなった、等々、取り囲む輪に加わらずとも端々の情報が耳に入ってきた。
 ところでハルヒはと言えば、興味津々の様子の割に、未だ待ちの姿勢だ。
「そんな周辺情報なんてどうでもいいのよ。どうしてこんなタイミングで転入なのか、そこに隠された謎を追うんだから」
 いや、お前を監視したり刺激したりする為らしいぞ。
 ……と、そう言ってしまいたい俺である。
 
 放課後、今にも得物へ襲い掛からんとするハルヒの死角を潜り抜け、俺は一足先に部室へと避難した。大体、いきなりあの朝倉に面と向かって何を言えば良いのかが分からない。
 部室には既に暇人3人が集合しており、銘々が悠々自適に午後のSOS団を過ごしていた。
長門、マジで来たぞ」
 ああ、この身も蓋もない言葉。やるせなさが行き場を失って言わせたに違いない。
「大丈夫」
 視線を本に落としたまま、長門は答えた。
 まあ、それはいいんだ。俺は長門の事を信用しているし、だからこの件に関しても俺への影響は心配していない。
「誰が来たんですか?」
 お茶を入れてくれた朝比奈さんが覗き込んでくる。何と言うべきか……朝比奈さんには、朝倉の事はどの辺まで話したんだっけ?
「あー、また秘密ですかぁ?」
 ぷっくりと頬を膨らませる朝比奈さんは実に可愛らしい。この仕草が素なのだから末恐ろしい事だ。……末、知ってるけどな。
 ともかく、先日のバレンタイン前の騒動では、朝比奈さんは何も知らないまま引き摺り回されていた訳で、そのせいもあって少々不安なのかもしれない。……年がら年中、いつでも不安そうだというのは言わない約束だ。
 ま、問題無いと思いますよ。長門のお墨付きですからね。
「そう、ですか」
 朝比奈さんは完全に納得しないまでも、笑顔を見せてくれる。
 ただ、ハルヒの奴はどうかな。ピンポイントにこのメンバーを集めたアイツの事だ、今にも朝倉を拉致りつつ、ここへ向かってる気が――――
 
 軽快に開いたドアから、ハルヒが顔を出した。
「……何よなんか文句あんの」
 なんなんだその偶然目が合った不良みたいな反応は。
「じろじろ見るからでしょ。デリカシーの爪の垢でも飲んどきなさい」
 誰だそりゃ。
 ハルヒは壁際に鞄を放り投げて椅子に座り、だらしなく脚を組んだ。こいつにこそデリカシーが10個は必要であろう。毎晩寝る前にビタミンCと合わせてスプーン一杯飲むがいいさ。
 とまあ、それはさておき迷探偵さんよ、朝倉の謎は解ったのかね。
「うーん、そうね、両親の都合で転校ってのも面倒な話よね。あたしなら絶対行かないけど。ほら、その、SOS団の事もあるし」
 変に早口で捲し立てるハルヒ。両親の都合だって?
「朝倉のお父さんって商社のお偉いさんなんだって。謙遜してたけど、あれは部長より上のクラスね。ま、突然の転勤も仕方ないんじゃない?」
 そうか。
 と返す俺ではあるが、ストレート勝負に平凡なセンター前で納得しているハルヒは、どこか妙だ。こいつはここで、そんな筈は無い、と根拠も脈絡も無くぶちかますのが基本形である。
 丸くなったと安堵すべきか、らしく無いと心配すべきか。もちろんこれは世界にとって素晴らしい事であり、安息の日々の到来は俺にとっても思いがけない僥倖だ。
 てっきり「久々の新入団員を紹介するわ!」なんて叫びつつ部室に朝倉を連れてくるハルヒを想像していたのだがな。
 
 早朝の憂鬱も、終わってみれば事も無し。
 朝比奈さんの着替えを待って外に出ると、既に夕陽が街並の向こうへ落ちようとしていた。坂は風の通り道になっており、ハルヒはコートの襟首を窄めている。
 俺の隣を歩いている長門は、朝以来、朝倉の事を話そうとしない。まあ、4月頃の状況に戻ったと考えれば、それだけの事だ。
「聞きましたよ、転校生のこと」
 古泉が小声で口を挟む。笑い事じゃねーぞ。
「まだ笑ってませんが」
 顔がニヤけてるだろうが。こいつのこの無責任な余裕は一体どこから沸いてくるんだ。
「特に問題は無いようですね。まあ、下手に涼宮さんに影響が出て苦労するのは、僕も同じですから」
「問題ない」
 古泉の苦笑と、長門の保証。対照的な両者ではあるが、お馴染みの反応にホッと落ち付く俺が居るのもまた事実。どんな非日常を呼び込むかと思ったが、どうやら今回の綱渡り、バランス棒は十分に長いようだな。
「ちょっとあんたたち、何こそこそ話してるのよ!」
 結局その後、俺と古泉は解散するまで、でっち上げの連続ドラマを語る羽目になった。でっち上げ過ぎて、例の文化祭の映画に特撮モノが混じった訳のわからん内容に変貌していってしまったが。
 
 
 家に帰り、妹とシャミセンを適当にあしらって部屋に戻ると、机の上に見覚えの無い鍵がある事に気付いた。古い錠前に使うような、無骨で小ぶりな鍵だ。
 妹のものだろうか。まさかシャミセンのものって事はなかろう。それとも俺がどこかで使ったのを忘れているだけか?
キョンく〜ん。ごはーん」
 階下から妹の声と夕飯の匂い。
 ま、大切なものなら、そのうち誰か名乗り出るだろうさ。鍵を机の棚に放り込んで、俺は部屋を後にした。

朝倉涼子の誘惑13
「いやぁ、みくるの入れたお茶は旨いねー! 良いお嫁さんになれる! 太鼓判押しまくり!」
 お茶を一口啜って、鶴屋さんは大喜びだ。朝比奈さんはお盆を胸に抱えて真っ赤になった顔を半分隠しており、ハルヒがその様子を何故か満足げに見ていた。
 俺はというと古泉と2人で不毛なブラックジャックを繰り広げ、得点計算用おはじきによれば21勝7敗と大幅にリードしている。そして長門はいつものように本を読み耽っていた。
 実に平凡な、SOS団の活動風景である。
 少し珍しいのは、鶴屋さんが遊びに来ている事くらいだろうか。まあ、名誉顧問である彼女に対し、SOS団に締める扉は存在しないのだが。
「まぁね、みくるちゃんはおっぱい大きいし、お嫁さん適性はバッチリよ」
 関係あるか?
「そっかそっか。んじゃ、あたしがみくるをお嫁に貰うっさ!」
「ええ? わわっ」
 赤くなった朝比奈さんの胸部に抱き着いて、と言うより顔を埋めて、鶴屋さんがけたけたと笑う。スキンシップというやつか、恐るべし女子高生。見てるこっちが目を逸らす勢いだ。
「なーに見てんのよ」
 まるで恥ずかしい奴を見るような生暖かい視線を向けるハルヒ。だから目を逸らす勢いだと言ってるだろうが。
「まったくしょうがないわね。ま、確かにみくるちゃんはおっぱい大きいし、鶴屋さんは髪の毛キレイだし、2人共あたしから見ても美人だとは思うけど」
 なんだ、ハルヒにしては珍しく人を立てた発言だな。
 それに、胸の大きさに関してはさておき、あいつは髪の毛をもセックスアピールとして認識しているらしい。その割に、自分の髪はバッサリ切ってしまってもいるのだが。
「でも、結構伸びたのよ。ほら」
 ハルヒは指で髪の毛を束ねて見せる。なんだそりゃ、幕末の浪人崩れあたりだな。
 
 軽く2度のノックが聞こえ、鶴屋さんのサバ折りから脱出した朝比奈さんは「はぁぃ」といつもの可愛らしい返事をしつつ、応対に出た。
「あら……」
 戸惑い気味の朝比奈さんだ。誰あろうと首を向けると、そこには転校生の姿。
「こんにちは」
 朝倉涼子である。
 思わず俺は、隣に座っている長門を見た。長門は、朝倉、俺、ハルヒとじりじり視線を動かし、特に何も言わず本に興味を戻した。
「あら、朝倉じゃない。何か用? ホントのこと話す気になった?」
 お前は昨日、カナダ留学で納得したばかりじゃないか。
「それはほら、敵を欺くにはまず味方からってやつ」
 味方は欺けたが、肝心の敵が欺けていない。
「涼宮さん、どんな事してるのかなと思って。お邪魔だったかしら?」
「なんだ、暴露でも相談でも無いの? まぁいいけど。入って」
 滅多に来ない客に向かって失礼なSOS団主幹であった。ま、本心としては俺も遠慮したい方ではあるのだが。
 朝倉は扉を閉めると、ぐるりと部室を見渡した。確かにここは奇妙な空間だ。ハルヒを問題にしなければ、興味を持つのも当然だろう。それどころか、朝倉はハルヒにこそ用があるのだからな。
「みくるちゃん、お茶」
 はいはい、と言ってから、朝比奈さんは困った顔をした。
「あ……ごめんなさい。湯のみが足りなくって……」
「ありゃ、ごめんごめん、あたしの使ってるやつだよね」
 さすが気の効く鶴屋さん、素早い反応を見せて立ち上がる。そうか、お客用は1つしか用意していないんだったな。まさかこんなところに同時に2人も客が来るとは思わんだろうし。
「湯のみ、お客さん用のも買っておいた方がいいでしょうか……駅前のスーパーとかに売ってますけど」
「いいのいいの」
 ハルヒは朝比奈さんを制して、
「えーと、キョン
 なんだ。
「家庭科室に湯のみあるから、取ってきて」
 あのな、お前は俺に窃盗で前科一犯付ける気か。
「学校にあるものなんてどう使おうと生徒の勝手よ勝手、言わば有効利用? さ、きりきり行ってくる!」
 半ば追い出されるようにして、俺は湯のみを強奪するべく家庭科室へと向かう事になった。部屋を出る直前、
キョン君」
 朝倉のその声に、何故か限りなく妙な気分になった。いつ以来だろうか、朝倉にそう呼ばれたのは。
 
 結局、俺が家庭科室から頂戴した湯のみでお茶を一杯飲み、朝倉は特に何をするでもなく帰っていった。敵状視察というものだろうか。警報レベルの波風も一時は覚悟したが、平穏無事で何よりだ。
 などと気を抜いていた俺は、ハルヒ達と別れてから唐突にその2人が現れた事に、極普通に驚いてしまった。
長門、とお前か……」
 その小さい長門に隠れるようにして、朝倉もそこに居た。
長門さんだけなら良かった、って顔ね」
 正直言って否定できないな。俺がお前に会いたい訳がないだろう。
「話がある」
 そう言って、長門が真っ直ぐに俺を見る。しかし言葉を選んでいるのか、長い間があった。
「超高次元でのエントロピー逆転現象を情報統合思念体が観測した」
 言葉を選んだにしては意味不明も甚だしい。もっと具体的に――
「何か起こったらしい、ってことよ」
 俺の質問を遮って、朝倉が答える。全然具体的じゃないぞ。
「適切な言い方が無い。統合思念体が四次元影を解析したが推定すら不可能」
 何と。長門や朝倉ならまだしも、親玉ですら解らない事があるとは。
 それは――ハルヒの仕業なのか?
「確率は高いが、不明。既存の三次元空間に影響が及んだかどうかも不明」
 なんだそりゃ。つまり何も起こってないかもしれない、って事か。
「極めて限定的に影響が発生している」
 長門は朝倉を見た。
「実はね、私、普通の人間みたいになっちゃったのよ」
 お前のどこが普通の人間なんだ。
「全部よ。情報操作が一切使えないの。私ね、個体としてはまだ生後数日だけど、生まれた時は前回の記憶と能力をそのままに引き継いでいたのよ」
「能力だけが失われた。原因は不明。情報統合思念体はこの事態を重要視している。そこで、唯一影響を受けた朝倉涼子を、涼宮ハルヒに接近させると決定した」
 やっぱりそう話が繋がるのか。思念体とやらのハルヒ好きも異常だな。だが、実際にハルヒの仕業かどうか解っていないんだろ?
「最も確率の高い選択肢」
 やれやれだ。こういうところが、俺がこいつらの親玉を好きになれない原因だ。まあ、下手に文句を付けると、長門の仕事まで否定せねばならないんだが……。
朝倉涼子にはあらゆる制限が架せられている。問題無い」
「そういうことだから」
 どういうことなのか。俺はさっぱり納得できていないのだが、笑った朝倉は唐突に手を伸ばしてきた。俺は反射的に後ずさりする。人間誰しも命の危機には敏感なものだ。
 いきなり驚かせるな。
「握手しようと思っただけなのに」
 お断りだ。大体だな、ハルヒを焚き付けようとする時点で有り得ないんだ。
「大丈夫よ。統合思念体も、情報解析が及ばない今回の事態に限っては慎重だから。」
 朝倉は悲しげに目を伏せて言う。が、この調子に騙されてはいかん。笑顔で切り掛かってくるような相手を警戒しないわけにはいかないだろうが。
 まあ、あまりハルヒ及びSOS団に関わらないと言うなら、構わないのだが。
「え……」
 朝倉は、珍しく無表情で口篭もった。
 いや、あれだ、別に近寄るなとかそこまでは言ってないんだ。ただ、ハルヒの出方を云々とかは勘弁してくれと――
「そうはいかないかな」
 しかし次の瞬間にもスイッチを切り替えたように笑って、
「私は出来る範囲で涼宮さんの観察をしないといけないから」
 待てオイ。
「よろしくね」
 最後に一際明るい笑顔を見せて、朝倉は柔らかく俺の手を握った。今度もやはり唐突だったが、俺は避ける事ができなかった。どこか朝倉の笑顔は、以前見たものと違っているような気がする。その差は、まるで長門の表情のような微妙さではあるが。
 朝倉の手のひらは僅かに温かい。
「じゃ、また明日」
 長い髪の毛をひるがえして、朝倉は靴音を響かせ坂道を走って行く。――長門を置いたまま。
「なんだありゃ」
朝倉涼子は――」
 長門は一旦そこで言葉を区切った。
朝倉涼子の過去ログデータを交え、情報統合思念体が事象の解析を行っている。今後13.96%の確率で特定できる見込み」
 それだけ言って、長門は滑るような足取りで、朝倉を追い掛けて行った。同じマンションに住んでいるのだから、当然だ。
 しばらく長門の背中を見送って、もうひとつ溜息をつく。
 朝倉涼子は――何だと言いたかったんだ? 長門

朝倉涼子の誘惑14
 涼宮ハルヒは、基本的に学食で昼食を食べている。理由は聞いた事が無いが、俺は普段友人2名と平穏に昼休みを過ごしているし、その点について特に不満は無い。昼ぐらいは心身共に休めたいからな。
 ところがその日は違った。
キョン、ちょっといい?」
 良くないが、良くないなどと正直に言おうものなら、さらに良くない事態に陥るのだ。これを"涼宮のジレンマ"と名付けよう。
「これ手伝ってよ」
 これ、と机の上に登場したのは、風呂敷包みの長方体である。壷でも入っているのだろうか。
「はぁ? お弁当よ、おべんと」
 弁当か。で、これは何の弁当だ。カバもキリンもこの辺には住んでないぞ。
「煮物はたくさん作ると美味しいって言うから、張り切りすぎてこんな量になっちゃったのよね。でも、おかげで超おいしくできたんだから」
 感謝しなさいよね、と手際良く机の上に弁当を展開していく。
 なるほど、手伝えというのは解った。しかし俺の弁当の処遇はどうなるのか。
「食べればいいじゃない」
 平然と無茶を言うな。
 しかし、女子の弁当がこんなにも嬉しくないというのは貴重な体験なのかもしれないな。この得体の知れない弁当と引き替えに一体何を要求されるのか。考える間もなく二度と御免である。
「おいキョン
 気付くと、弁当を手にした谷口と国木田が、この惨状を見て難しい顔をしていた。
「……ま、お前にはお前の道があるんだもんな」
 好き好んで歩いてるワケでは断じて無い。
 
 午後から放課後にかけて、俺の腹はそれこそ膨れっぱなしだった。二重の弁当をハルヒと半分ずつ食ったものの、まるで30分で食べ切ったら賞金1万円という看板を掲げたくなる程に、自画自賛すべき驚異的な量であった。
 ま、味は悪くなかったのだが。
 部室を出て帰る時間になっても腹の調子はいまいちで、俺は他の連中とは別れ、もたもたと道を歩いていた。
 だからこそ、と言うべきか。普段は通り過ぎるだけの公園とも呼べぬような小さな広場で、ひとり座っている朝倉を見つけてしまった。話しかけようとして、思い止まる。俺は何を率先して面倒に足を突っ込もうとしているんだ?
 しかし、俺が立ち去るよりも早く、朝倉はこちらの気配を察したかのようにハッと顔を上げた。
 笑顔になる朝倉。
 
 仕方なく歩み寄った俺に、朝倉は首を傾げた。
「なんだか、疲れてるみたいね」
 まあな。
 朝倉の存在という違和感よりも疲労の方が勝ってしまった俺は、その隣に腰掛けた。座ると言ってもただの石段だ。一息ついて、いきなりここで刺されたら長門は来てくれるだろうか、などと考える。
「涼宮さんは?」
 先に帰ったぞ。あいつは何でほぼ同じ量を食っておきながら平然としてられるんだろうな……。
「あのお弁当すごかったね」
 なんだ、見てたのか?
「え? あ、うん」
 変な反応を見せて、朝倉は微笑を背ける。
 何やらはっきりしないが……こいつは、こんな奴だったか? 1年近く前、クラスに溶け込んでいた朝倉のイメージは、いろいろな事件を経てそれなりに俺の中に残っている。そこから掛け離れている……とは言わないまでも、随分変わっているような気がするんだが。
 ふと見れば、朝倉はハンカチ包みの箱を手持ち無沙汰に弄っている。
 そういや朝倉も弁当なんだな。
「う、うん。その……偶々ね」
 いつもは学食なのか?
「うん」
 ――明らかに変だ。
 朝倉と言えば、当たりが柔らかいから気にならなかったものの、何事に於いても自信家のような振る舞いを取っていたように思う。皆、笑顔と外見と物腰に騙されていたが、言う事は言うし、実はかなり押しが強い。
 あまり他人の気持ちを考慮しないと言うか、つまりは、言い過ぎかもしれないが、機械のような奴だった気がする。それも今なら当然だと納得だ。朝倉が人では無い事を俺は知っている。
 ところがどうだ?
 今の朝倉は、明らかに遠慮をしている。何かの発言を控えている。上の命令に背いてでも我を通すというような直線的な面が引っ込んでしまっている。それが悪いと言う訳じゃないさ、むしろ美点だと褒め称えたいね。……しかし、変である事に違いはない。
キョン君」
 朝倉は俺を見ずに、
「これなんだけど」
 と言って差し出したるは例のハンカチ包み。見た目は――弁当箱である。
「その……ちょっとだけでもいいから、感想……聞かせて欲しいの」
 感想?
「本当はお昼に渡そうと思ったんだけど、ほら、涼宮さんが居たから。お腹いっぱいだとは思うんだけど、ちょっとだけでも……いいから。ね?」
 ずいと寄越された弁当箱を、思わず受け取ってしまう。
 いや、朝倉は食わないのか? 昼飯はどうしたんだ?
「え? えーと……学食で食べたから。おそば」
 にこやかに笑う朝倉の髪の毛が、坂道を下る風に押し出されるように凪いでいる。太陽に照らされ青に透ける。
 弁当を持ってるのに、自分は学食で食うなんて、おかしいと思わないのだろうか。……いや、そうじゃないか。朝倉は多分、ハルヒの反応を見るべく、この弁当を俺に食わす為に作ってきたのだろうから。
 しかしその予定は狂って、今俺の前に朝倉の弁当がある。ハルヒはとっくに帰ったと言うのに、だ。
 そんな事を考えつつも、俺がその空色のハンカチを睨んでいると、
「あ、やっぱりお腹いっぱいだよね。無理しなくていいから」
 意外と素早く俺の手から弁当箱を取り上げると、苦笑しつつ朝倉はカバンを持って立ち上がった。
「じゃ、私帰るね」
 おいおい。
 そう突っ込む間も無く、朝倉は石段を飛び降りて、両手にカバンと弁当箱をぶら下げて走っていく。あまりの急な出来事にすっかり固まっていた俺は、しばし呆然とその後ろ姿を目で追い――
 朝倉は突然、何もないところで躓いて転びそうになった。
 幸い、なんとか持ち堪えた朝倉は、俺の方を振り返る。見られていた事に気付いたのか恥ずかしげに笑うと、もう一度だけ手を振り――と言うより弁当を振り、今度は歩いて帰っていった。
 朝倉の姿はすぐに見えなくなり、いつの間にか夕日が傾き始めていた。
 
 しばらく、俺は石段に座ったままだった。
 ――これは、何かが起こっているのか?
 涼宮さんが居たから? それが理由なのか? ハルヒの反応を見るだのと公言した奴が、当のハルヒに気を使ったのか?
 そう考えると、今日の出来事は最初から最後まで何か奇妙だ。
 ハルヒは何故いきなりあんな巨大な弁当を持ってきた? 朝倉がそれに合わせるようにナイフを弁当に持ち替えたのは? 朝倉がハルヒに遠慮したのは、情報統合思念体の意向もあるのかもしれないが、それなら始めから弁当作戦などしないだろう。そして、今の朝倉の様子。
 被害者意識が強すぎる気もする。元はと言えば朝倉が帰ってきたのが主な原因ではあるが、考え過ぎだろうか。尤も、考えても俺に答えは出せないんだろうがな。