朝倉涼子の麻婆&太腿

朝倉涼子の麻婆

 駅前でばったり朝倉と出くわした俺は、何故か昼飯をごちそうになる事になっていた。
「いつも長門さんがお世話になってるから」
 そう言った朝倉だが、どうして長門の世話をすると朝倉が飯を奢るのか。その辺は謎である。と言うか、俺は長門の世話をした覚えは無いのだが。
 宇宙人マンションの一室に案内され、リビングに通される。初めて見た朝倉の部屋は、長門の部屋よりも明らかに物が多く、それでいて小綺麗にまとまっていた。淡い茶色で家具は統一され、液晶テレビなんてものもある。
「じゃあ、ちょっと待っていて」
 朝倉は手にしたスーパーのビニール袋を見せて、片目を瞑る。いや、あれはウインクをしたのか? 何故かやたらと楽しげなのだが。
 
 しばらくして、鍋を振る音と、香ばしい匂いが漂ってきた。てっきり、カレーもしくはおでんに類するモノを想像していたが、どうもそうでは無いらしい。まあ、朝倉の買い物の中身は知らないが、連中の事だ、一通り何でも作れるのだろう。
「おまたせー」
 随分と大きな皿を持った朝倉がやって来た。頭に頭巾、両手に鍋掴み、エプロン姿と、限りなくそこいらの定食屋の若女将風である。なんだ、最近の宇宙じゃ、ああいう格好が流行ってんのか?
「どうしたの?」
 鍋をテーブルに置きつつ、俺を覗き込む朝倉。
 なんでもないがな。ただちょっと宇宙の深淵について思いを馳せていただけで。
「そう。知りたければ教えてあげるけど」
 マジで教えて頂けそうなので丁重にお断りしたい。
「どうしたのキョン君。なんか変ね」
 朝倉は笑って、台所へ引き返して行く。
 テーブルの上に乗った皿には、大量の麻婆豆腐がまるでマウナケア火山も斯くやという勢いで盛り付けられ、ふつふつと熱く滾っていた。宇宙人はどうしてこう料理を大量に用意するのだろうか。やはり人よりも消費エネルギー量が多いという事なのか? 俺の疑問を余所に、戻ってきた朝倉は炊きたてらしいご飯と漬け物、ペットボトルのお茶を手際よく用意して、俺の対面に座る。
「じゃ、いただきましょう」
 いただきます、なんて風に手を合わせる朝倉。俺も釣られて手を合わせる。朝倉は小皿に麻婆豆腐を取り分けると、二度三度とスプーンで餡を少しずつ掬って食べる。
「その辺のお店より辛いと思うんだけど、大丈夫かな?」
 スプーンに豆腐を取って、俺の口元に寄越した。
「あ〜ん」
 いやいいから。
「なんで?」
 なんでもかんでもあるか。何を企んでるんだお前は。
「ツマンナイの」
 ぷっくりと頬を膨らませて、朝倉は小皿を俺の前に置く。
 何故そこで朝倉が怒るのか、それが俺には解らん。さっぱり解らん。つうか解りたくもない。
 
 大量の麻婆豆腐は、俺6朝倉4の割合で腹の中へと綺麗に収まり、ついにはこの世から消滅した。奇跡的な俺の頑張りもあるが、朝倉も正直食い過ぎではなかろうか。学校でこのような光景を繰り広げた記憶など無いから、ある程度は自制しているのかもしれない。
 俺が腹一杯になって見事にヘバっていた間、朝倉はせっせと食器を片付け、洗い物をしていた。水の音が消え、タオルで手を拭きながら戻ってきた朝倉は、いきなり俺の隣に座り込む。驚いて後退ると、朝倉はニンマリと笑って、
「おいしかった?」
 ……まあな。量は多過ぎだが。
「そ。じゃあ、お願い1つ、聞いてくれるわよね?」
 何故そうなる。俺は勝手に連れて来られてだな――
「ふふ……。のこのこと着いて来た段階で解ってるくせに」
 怪しげな笑みを浮かべ、朝倉は覗き込むように視線をぶつける。まあ、朝倉の言う事は否定できない。確かに何か裏があるとは思っていた。ここまであからさまなのは想定外だったが。
「じゃあ、さ……」
 朝倉はさらに近付くと、俺の胸元に顔を埋めるようにして―――
 
「麻婆の匂いがする」
「え?」
 きょとんと顔を上げた朝倉に、俺はもう一度告げた。
 麻婆豆腐の、唐辛子やら山椒やらの匂いが残りまくりだぞ、朝倉。
「え、うそ」
 慌てて朝倉は離れると、襟の辺りに鼻を寄せてくんくんと匂いを嗅いでいる。
「……ちょ、ちょっと匂うかな……」
 散々台所で料理をして、あれだけ食ったんだ。鼻が馬鹿になってるんだろう。朝倉は顔を見事に真っ赤にして、狼狽している。
「ま、待ってて。ここで待っててね?」
 そう言うと、朝倉はいそいそと台所に消える。何をしているのかと思ったが、すぐに戻ってきて、また俺の前に座る。
「一通り匂う科学物質を取り除いてみたんだけど」
 笑顔で言うが、まだ麻婆な匂いは残っていた。鼻が馬鹿になってるのが原因なら、そもそも朝倉ではそれを除去できないんじゃないか?
「そ、そうなのかな……」
 困った顔をして、朝倉は考え込んでいる。やがて何かを決心したかのように、
「わかった。じゃあお風呂入ってくるから」
 と、またも台所へと去っていった。
 一体全体、朝倉は何をする気なのか。ナニをする気なのか? いやまあその辺の判断は置いておくとしてもだ、ただまんじりと座っていては何か非常に危険である気がするのも事実。
 書き置きでもして逃げるか。そう決断した時だ。
 ドアのチャイムが鳴った。
 朝倉はシャワーの音で気付かない。が、俺が出る訳にもいかない。しばし困っていると、鍵を掛けた筈のドアが開く音がして、軽い足音がリビングに現れた。
 そう、長門だ。
 唐突に現れた長門は、何もかも解っているような表情で俺の方を一瞥し、俺の対面に座った。
 そして台所を見る。
「ごめんなさい。お待たせキョン君」
 笑顔も艶やかに、バスタオル姿の朝倉が長い髪の毛から水を滴らせて戻ってきた。
 
 そして笑顔が凍った。
 
 固まった無表情の長門と、固まった笑顔の朝倉は、しばしお互いを見つめ合っていた。
「……ええと。麻婆豆腐なら作れる……んだけど……」
 こくり。頷く長門
 肩を落として台所へ去って行く朝倉は、なんだか微妙に哀れであった。

朝倉涼子の太腿

 キョンが帰ったあと、長門は予定通り涼子の作った麻婆豆腐を平らげた。親の敵と大皿に山盛られた熱々麻婆をいとも簡単に腹へと流し込んだ長門は今、コップに注がれた冷たい緑茶をちびちびと飲んでいる。
「今日はどうしたの?」
 とりわけ理由を聞きたいという訳でも無かったが、涼子はテーブルに肩肘を付いてそんな事を訊ねた。長門はちらりと涼子を見て、しかし何も言わず、コップを傾ける。
「まあ、別にいいけどね。キョン君に作ってあげたのは偶然会ったからだったし」
「そう」
 長門は正座をしたまま、ちびちびと緑茶を飲んでいる。飽きるでもなく、涼子はその様子を見ている。
「あ、そうそう。お夕飯も作ってあげようか?」
「いい」
「遠慮しなくてもいいのに」
「平気」
 涼子は肩を竦める。長門はこのあたり、意外と強情だ。理屈のみで考えれば拒否をする意味も無い筈なのだが、あくまで自らの意志を尊重する態度。以前と比べれば、随分と変わったと思う。無表情の中が透けて見えるような気がして、涼子はますます長門の顔を見てしまうのだ。
 長門が空になったコップを名残惜しげにテーブルへ置いた。
「ん? おかわり?」
 特に何も言わなかったが、長門はもう一杯お茶が飲みたそうだった。普段なら勝手に自分で取りに行くだけに、却って涼子はその無言のニュアンスに気付いた。
 小さく頷く長門
 涼子は台所から緑茶のペットボトルごと持ってくると、長門のコップになみなみと注いでやりつつ、
「まったく、2回もお昼ご飯作って疲れちゃった」
 そんな事を言ってみた。
 長門はまじまじと涼子を見つめ、
「夕ご飯はわたしが作る」
「そう? じゃ、ごちそうになろうかしら」
 嬉しくなって、涼子は長門の頭をぺたぺたと撫でた。
 ふう、と息をつく長門
 ―――気付いたのは偶然だ。そもそも大皿に盛られていた麻婆豆腐は長門の胴体の体積にも匹敵するかの如き極悪なボリュームであり、それを食い尽くした挙げ句に情報操作の一つもしなければ、一体どういう状況なのかは考えれば解ることである。
「よっ、と」
 涼子は唐突に、正座している長門の膝の上に頭を乗せた。長門はしばし固まっていたが、やがて僅かな非難の色を湛えた目で涼子を見下ろした。
「いいじゃない、これくらい。お昼のお礼って事で」
 自分でお礼などと言っていれば世話は無い。が、どうやら腹が窮屈で動けないらしい長門の様子を看破し、涼子はこのような暴挙に及んでいる。長門は休日だと言うのにいつもの制服姿で、剥き出しの膝が少し涼しげだ。長門が動けないのを良いことに、涼子はもぞもぞと頭を動かしてふとももの上にキッチリ乗っかると、白い膝とその下のふくらはぎを撫でる。撫で尽くす。
 じー、と長門が涼子を見る。
長門さんのふともも良いわねー。なんだか止まらない感じ」
 ぐりぐりと頬を長門のふとももに押し付けると、イイ感じの弾力で押し返してくる。これは正直なところ、数値では言い表せない不思議な感触だ。有機体の複雑さが成し得た奇跡とでも言うべきか、同じ情報体でも統合思念体にはこの感覚は解るまい。そんな弾力だ。息を吸い込むと、もはやそこは長門の匂いに満たされていて、それも何故か幸せな気分に浸らせてくれる。見上げれば困ったような長門の視線に当たり、制服は衣擦れの音を静かな部屋に漏らしている。スマートで、しかして触れれば存在感もある。枕としてなら深夜通販もびっくりだし、何と言っても人肌の暖かさ。
 五感で存分に味わう長門のふとももに、涼子はすっかり満足していた。
 
 ―――そのせいか、長門が情報操作をした事に、涼子は気付かなかった。
 いきなり膝を引かれ、頭を床に落とされる。
「いたっ」
 涼子は頭を押さえて、立ち上がった長門を見上げた。
「もう、急にどうしたの?」
「……夕飯の買い物」
 長門はそれだけ言い残すと、さっきまで一杯だった腹をさすりつつ、財布を持ってリビングを出ていってしまう。
長門さーん」
 涼子が呼び戻すと、部屋の入口から長門が顔だけ見せる。
「カレーじゃないのがいいな」
「…………そう」
 しばし逡巡して、長門は改めて部屋を後にした。
 さて何を作ってくれるのかしら、と涼子は呟いて、長門が残していった緑茶を一口啜った。