涼宮ハルヒの憂鬱番外編 朝倉涼子の誘惑シリーズ その3

朝倉涼子の誘惑8
 SOS団兼文芸部室には来客用の湯のみが用意されているのだが、ここ最近までその来客用などという名目は有名無実化しており、言わば鶴屋さん用であった。
 ところがこれまでのアレやコレやといった展開によって、今では完全に朝倉用と化しており、ついに昨日その2人が部室でバッティングした事から問題が表面化してしまったのだ。
 名案を思いついた三文探偵のように人差し指を立て、
「そうね、家庭科室にまだ湯のみがあった筈よ」
 そんな風に窃盗を自供したハルヒではあったが、俺達を共犯に巻き込もうとしても、そうはいかん。朝倉の親御さんが幾ら急進派だと言っても犯罪は止めさせるだろうしな。
「彼女達がどういった絵柄、色彩を好むのか、これは実に興味深い選択です。人間用に整理された心理学大系が彼女たちに適用できるかどうかはさておき、学問とは――」
 何やら長々とそんな事を言っていた古泉ではあったが、何やら外せない用事があるとかで帰ってしまった。湯のみの柄に明確な意義を持てないハルヒと、本以外に興味を示さない長門も去り、残されたのは、
「……あのぅ、どこに行きます?」
 俺と朝倉と、朝比奈さんだ。
 
 駅前のスーパーは、夕飯の材料を買い求める主婦層でそれなりに混雑していた。店内には客の購買意欲を増進するべくアップテンポな曲が流れ、赤白に目立つ値引きシールがいたる所に散らばっている。
「料理をした日も、ここで買い物でしたよね」
「そ、そういえば、そうでしたね」
 情報操作ジュースを飲んだ記憶が蘇ったのか、単に宇宙人耐性が低いのか、朝比奈さんはスーパーに入ったあたりから明らかに挙動不審である。
 しかしまあ、それを除けば、学校の制服でカゴを抱えた朝比奈さんというのは実に心休まる御姿であり、こういう家庭的な一面も悪くない。ハルヒの趣向も解らんでは無いのだが、あいつはこういった普通の良さに疎いのだ。
「あ、ここです」
 足を止めた棚には、地味な彩りの陶器が並べられていた。それほど多くない種類の湯のみが、値札を付けられて寄り添っている。
 朝倉は微笑んで、
「ありがと」
 チラと湯のみを見渡すと、無造作に1つを手に取った。
「じゃあ、買ってくるわね」
 残念ながら部費など出る訳も無く、朝倉の湯のみは自腹である。
 それにしても、長門にしろ朝倉にしろ、宇宙人製アンドロイドの財源は一体どうなっているのだろう。
 やはり情報操作でちょちょいのちょいという事なのだろうか。ひょっとして知ろうとするとキャトルでミュティレーションでMIBでタブロイド紙5面な事態になってしまうのだろうか?
 そんなB級映画ネタをぼんやり考えていると、隣にいた朝比奈さんが、
「外で待ってましょう? レジ、時間かかるみたいですし」
 
 騒々しい店内から外へ出ると、路地を抜ける風が足元を浚っていく。朝比奈さんは手のひらに息を吹き掛け、小さい肩幅をさらに狭めていた。
「ね、キョン君」
 唐突に朝比奈さんは俺を見上げる。
キョン君は、今のSOS団のこと、どう思う?」
 今のというのはつまり、朝倉入団後の事を言うのだろう。だったら、別にこれまでと変わらないと思いますけどね。ハルヒが騒いで、俺達があたふたする。
「そうね……」
 不安げに目を伏せ、朝比奈さんは溜息をついた。
「えっと、キョン君には、伝えておきます」
 まるで聞きたくならない言い出し方である。
「今のこの状況ね、実は私たちも、長門さんたちも、想定していなかった事なの」
 身構えていたせいか、その言葉にも大して驚きはしなかった。
「でも、この状況、規定路線から外れてもいないみたいなの。揺らぎの中に辛うじて収まってる……」
 どういう事です?
「つまり、禁則事項で、……あ、これ駄目なんだ」
 久しぶりの口癖に、朝比奈さんは口を押さえる。
「ええと、もしも仮に、朝倉さんがSOS団に入らなかったとして、それでも大まかな未来に変更はおきないの。ほら、涼宮さんが、朝倉さんを連れてきた時のこと、覚えてる?」
 ええ。そりゃもう大層驚きましたからね。
「あの直前に、極小規模な情報噴出が連続したって、長門さんが言ってました」
 まさか……ハルヒが?
「いえ、判らないんだそうです。上司から受けたレポートでは、偶然にも起こり得る程の僅かな時空の揺らぎが検出されただけ、だとか……」
 その後に、涼宮さんの仕業では無いという見解で一致しています、と朝比奈さんは小さく付け加えた。
 
「お待たせ」
 小さなレジ袋を持った朝倉が出てくる頃には、手足もかなり冷え切っていた。まったく、春も近いというのにな。
 そう言えば、朝倉はどんな湯のみにしたんだ? 幾らラインナップに乏しいとは言え、やけにあっさりと選んでいたが。
「これ」
 袋から取り出したのは、各種寿司屋にありがちな、魚偏の漢字が並んでいるかなり大きな湯のみだ。鰯、鰤、鰹、などと刻まれているアレである。
「なんでも良かったんだけどね」
 俺の表情を読んだのか、朝倉が理由になっていない理由を解説する。
 何と言うべきか、朝倉も長門同様に大食いなのか、などと一瞬考えてしまった。朝比奈さんもお茶の淹れ甲斐があるというものだろうが。
「違うんだけどな」
 朝倉は笑って、そんなことを言う。何が違うって?
 
 翌日。
「ちょっとキョン。帰りに駅前まで付き合いなさい」
 何故に?
「なんでもいいでしょ。少しショッピングしたい気分なのよ」
 結局その日、ハルヒの機嫌が直ったのは、新しい湯のみを俺が奢らせられた後の事だった。朝倉がハルヒに何を言ったのか想像に難くなさすぎる。
 しかしなんだ、地味〜な作戦だなぁ急進派よ。しかも痛んだのは俺の懐か。次からは情報統合思念体急進派様宛に請求書を出したい気分である。
 ……いや、MIBでタブロイド紙5面は勘弁なのだがな。

朝倉涼子の誘惑9
 春は恋の季節、なんて事を言ったのは誰だったか。特に年度末も近いこの季節、谷口が言うには駆け込み需要も多いらしく、供給不足の状態は5月一杯まで続くらしい。インフレが進み、物価が上がり、共産主義者たちが声を大にする。
 ま、俺には関係のない事だが。
 ――などと悟った気分で居たのが運の尽き。俺は名も無き市民の声が生んだ爆弾を手にする事になってしまった。それも宛先違いで2つ。
 爆弾の名を、一般にラブレターと言う。
 
 それは放課後に訪れた。
「なあ、ちょっといいか」
 旧館の薄暗い階段の下から出てきたそいつは、周囲に誰も居ないところを見る限り、明らかに俺を呼び止めていた。見覚えの無い、長身の男子生徒である。
「これを預かって欲しいんだが」
 真面目な表情で取り出したのは、白い封筒。状況、物証、態度から考慮するに、俺は一瞬で結論に至った。
「わるいけど、自分で渡してもらえますか」
 長門の一件もあり、当分その手の話題には関わりたくないという心情も入っていた事は否めない。それにハルヒじゃないが、そういうのは面と向かって伝えるべき事だろう。
「そう言わずに、なんとか。君はよく一緒に居るじゃないか」
 そいつは苦笑して封筒を差し出す。考えうるターゲットは朝比奈さんの可能性大であるからして、2年だろうか。確かに鶴屋さんがいつも張り付いてるから接触し辛いのは解るのだがな。あの人は朝比奈さんの保護者のようなポジションを自認しているところがあるから、
「朝倉さんに」
 それだけを言い残して、そいつは手紙を押しつけて行っちまった。こいつは予想外だ。
 
 ――予想外などという発想は俺の偏見なのかもしれない。
 いや、偏見などでは無く俺からすればまったく純粋な感想であるのだが、谷口的一般認識からすればマイノリティであるという事だ。AAプラスの朝倉涼子に憧れを抱く男子が居たとしても不思議では無いし、これまでにも同様の出来事はあったのかもしれない。
 部室に顔を出した俺は、飢えたライオンに生肉を差し出すかのような愚を犯す訳にもいかず、朝倉を目の前にしながら手紙を渡す機会を逸し続けていた。
 当の朝倉はハルヒとカードゲームに興じており、朝比奈さんがパソコン相手に悪戦苦闘しているという珍しい光景が広がっている。
「将棋でもいかがですか」
 そうだな。
 折り畳み将棋盤を持ち出した古泉にうなずいて、俺は少々皺の寄った手紙をポケットの奥に押し込んだ。これくらいは勘弁して欲しいものだな、哀れと思って気を揉んでやっているのだから。
 
 ゲームが2勝2敗という結果に終わり、結局ラブレターは俺のポケットの中のままである。まあ、実は呪いのアイテムで今日渡さねば明日死ぬという緊急事態、というわけでもない。
 昇降口から外へ出ると、空が意外と明るい事に気付く。ここのところ、随分と日が長くなってきたな。
「ほんとようやく、あったかくなってきたわね」
「涼宮さんは、暖かい方が好き?」
「そうね。やっぱり体のキレが違うわ。あまり暑いのは嫌だけど」
 朝倉の問いに、シャドーボクシングをしながら答えるハルヒ
「でも夏になったらなったで、海とかいろいろ涼しみ方はあるもんね。今年はどこに行こうかしら」
「まだ春になったばかりなのに」
 くすくすと笑う朝倉に、ハルヒが肩を竦める。
「何言ってるの涼子、光陰矢の如く去りぬなんだかんね」
 混じってるぞ。
「自作よ」
 いやパクってるだろ……。
「ほんと面白いのね」
 不覚にもハルヒとボケツッコミを繰り広げた挙げ句に朝倉に笑われ、俺は盛大に溜息をついて見せる。しかし最近は朝倉も人の事は言えないぞ、ツッコミ役としての立場を確立してるじゃないか。
「そうかしら」
 ああ。でもな、俺はそのお陰で多少は楽になった気がしてるよ。これまでツッコミが少な過ぎたからな。
「なんかさ、さっきから、あたしがボケだの何だのと言われてる気がするんだけど」
 善悪の問題じゃなくて役割の問題だ、気にするな。
「あっそ」
 ハルヒが憮然として腕を組む。それを見て、やっぱり朝倉はまた笑う。
 
 ――ああ、なんだか不思議だな、これは。
 俺は唐突にそんな事を思った。そう、ほんの数週間前までは、こんな状況は予想もしなかった。
 朝比奈さんは何やら古泉と話しており、ハルヒは朝倉に夏の素晴らしさについて語り、長門は本を読んでいる。
 見渡せば、いつの間にか馴染んだ光景。いつものSOS団
 こうしている限りは、平凡な日常。
 
 そんな風に、油断したのがいけなかったのだ。
 
 疾風のように駆け寄った影は、塀の死角から飛び込んでくると、俺の横っ腹にそれを突き出した。長門は反応しなかった。朝倉もだ。朝比奈さんは驚いて立ち止まり、古泉の表情からも珍しく笑みが消えていた。ハルヒはぽかんと口を開けて、俺とその影を見ていた。
 俺は、突き出されたそれを、無意識に手に掴んだ。
「こ、こっこれ読んで下さい!!」
 影は――少女の姿をしたその名も無き市民は、そんな台詞と今日2発目の爆弾だけを残し、塀の向こうに走り去った。
 唖然。
 これはまさしく、事故だ。
 俺とその他4名は、言葉も発せないまま、慣性の法則に従ってその場を動けない。唯一、物理法則をも超越し得るあいつだけが、一足先にその呪縛から解放された。
 猛然と襲いかかったその壮烈な顔に思わず仰け反った俺は、ハルヒに押し倒される格好で道端に倒れ込んだ。
 まさに、ライオンに生肉。
「いってーなこのやろ!」
「ちょっと見せなさい!!」
 ああ、長門の時もこんなんだったなぁ、と思わずにはいられない。
 俺は何故だか急にバカらしくなり、おとなしく手紙を譲渡した。多分、責任だの憐憫だのという、変な理由が無いからなのだろう。
 ハルヒは手紙の表裏をじろじろと見回し、ふむふむ、うーん、ほにゃららさん、北高の1年じゃない、知らない子ね、などと唸っている。
「宛名が無いわ。手渡しなんだから必要ないか」
 あのな、いいから早く退いてくれ。いつまで俺は公道でマウントポジション取られにゃならんのだ。
 無言で退くハルヒが、手紙から、ふと俺の制服に視線を落とす。釣られて、俺も。
 転んだせいか、ポケットから白い封筒が頭を覗かせていた。
「ま――」
 神速の手捌きで、ハルヒが封筒を抜き去る。
「待て! こらハルヒ!」
「えーと、なになに」
 目を細くして封筒の裏を読むハルヒ。そっちの封筒には、差出人と宛先が書いてあるのを確認済みだ。2年男子らしい名前を読んだハルヒは、僅かに目を丸くして、
朝倉涼子様?」
 この後の事態を鑑みるに、朝倉はともかく、あの2年男子に心から詫びたい気分だ。
 
「――ふーん? なんでずっと持ってたのよ、すぐ渡せばいいのに」
 お前は自分がさっき何をしたのかもう忘れたのか。
「まあいいわ。しかし面白いわね、1日だけでキョンと朝倉の2人がラブレターを貰うなんて」
 面白くない。俺はもう疲れた。
「何言ってんの、あんたが貰ったんでしょう? もうちょっと喜びなさいよ」
 駅前の喫茶店での緊急会合では、ハルヒが1人、はしゃいでいる。
 まるで被告人席に座らされたかのような俺と朝倉。ツッコミ2人が強制的にボケ担当にさせられるという異常事態に、他3名はこれでもかというほど役立たずであった。観察か、そんなにお前ら観察が好きか、夏休みにヒマワリでも育てとけ。ニヤニヤするな古泉。
キョンも朝倉も、相手の事は何も知らない、と……。本当でしょうね?」
 嘘ついてどうなる。
「ま、そもそも我々SOS団の団員には、恋愛なんかする暇は無いのよ。この世の不思議を追求するという命題がある限りね」
 いつの時代の軍隊だ、それは。
「と言うわけでキョンは、まあ穏便に断っておきなさい。それが相手の為ってものよ」
 とんでもなく酷い言われ様である。
「朝倉はどうなの?」
 何故に、俺が完全禁止で、朝倉には自主性が残されているのか、問い質したい。
「あんたはヒラ。朝倉は書記でしょ」
「私もお断りしたいかな。全然知らない人だし」
 それもそうね、とハルヒは朝倉の言葉にあっさりうなずいた。
「でも、どうやって断ろうかしら。どういうのが、適した言い方なのかな」
「そうねえ」
 ハルヒは唸って、2通のラブレターを見ている。まさか出した当人たちも、こんな事態になっているとは思うまい。気の毒な事だ。
 コーヒーを飲む。砂糖の甘い味覚が、今日のところは胃に優しい。それにしても、何という厄日か。正直な話、そろそろ寝て日付を変更したい。
 不意に、ハルヒの目が光った。きらーん、と音がした。俺には聞こえた、間違いなく聞こえた。
「そうだわ」
 ……なんだ。
「この2人だって、ただ断られるんじゃ、ちょっと気の毒よね。優等生の朝倉はともかく、大して取り柄のないキョンに告白を拒絶されるなんて、ショックで拒食症になっちゃうに違いないわ。やっぱり何か理由が無いと」
 ああそうかい。
「だから、こうしましょう!」
 ハルヒは立ち上がって、裁判長よろしく、俺と朝倉に判決を告げた。
「あんたたち、恋人のフリしなさい!」

 
その4に続く