涼宮ハルヒの憂鬱番外編 朝倉涼子の誘惑シリーズ その4

朝倉涼子の誘惑10
 参勤交替する外様大名のような陰鬱な気分のまま駅前に着いのは、まだ約束の時間の10分前。春の太陽は俺の境遇を嘲笑うかのように照り付け、朝っぱらからウザいほど元気な天気予報士によれば、図々しい事に今年一番の気温になるそうだ。
 もういっそのことサボろうかとも思った。しかし、そんな事をすればハルヒがどっちに走り出すのかそれこそ予測が付かない、という関係各国の執拗なロビー活動によって、俺は渋々喜劇を演じる事と相成った。いや悲劇か。
 柱に背中を預けること15分。10時5分になって、ようやく俺の恋人らしき人物が現れた。
「ごめん、遅れちゃった」
 小走りに駆けて来た朝倉は、小さく舌を出して、すまなそうに俺を見上げた。
 いや、あのな、別にドラマ風演出は要らんから、定時に来てくれ。しかもちょっと参考映像が古過ぎないか?
「あら、そう?」
 小首を傾げて、平然と朝倉が言う。
「デートってこういうものみたいだけど?」
 たった今、宇宙人調べによるこの国の恐るべきデータが明らかになった。曰く、女性はデートに5分遅れ、上目遣いで謝るべし。
「それより、早く行きましょう」
 朝倉は強引に俺の腕を取ると、それを小脇に抱えた。
「今日はどこに行くの? 映画館とか? それともちょっと早いけど食事にする?」
「すぐそこのホームセンターと、学校だ。あと腕を組む必要は無いだろ」
 早速の溜息をつきながら言うと、朝倉は目を細めて笑う。怖いぞ、それ。
「涼宮さんが見てるんだけどな」
 なに? どこだ。
「さあ、どこでしょう? 恋人のフリをしてないと、またしゃしゃり出てくるわよ?」
 徹頭徹尾、場を仕切らないと気の済まないハルヒの事だ。いきなり登場して過剰な演技指導をしていく可能性も否定できない。ならば、この辺りでお茶を濁してはどうか、と朝倉は言っているのだ。
 なるほど、と言いたくは無いが、一理ある。やれやれだ。
「でしょう?」
 そこまで演技をする必要もあるまいに、朝倉は嬉しそうに笑うと、俺の腕を引いて目的地へと歩き出した。
 
 駅前から徒歩10分のホームセンター。1本のネジから100人乗っても大丈夫な倉庫まで、おおよそ道具的な物であれば何でも売っているタイプの店舗ではあるが、こういうところは明確な目的が無いと来ない。俺も訪れるのは数ヶ月ぶりだ。
 連行される容疑者のような気分で、俺は朝倉と腕を組んだまま、戦場へと続く自動ドアを潜り抜けた。俺の人権に配慮して、腕のトコロにモザイクを入れていただけないだろうか。
「モザイク状にする事は出来ないでもないけど」
 そういうグロい脅しはやめてくれ。
 ――なんだ? 今の発言があまり朝倉らしくない気がして、俺は隣に並ぶ顔を横目で覗った。いつもと変わらない、微笑を宿し整った顔立ち。ただ若干、彼女達に標準装備の平静さが無いような気がしないでもない。
 上手いこと演技をするもんだ。これならハルヒ超監督の指導も入るまいて。
 ……さて、目的の人物はどこだったかな。
「奥の方にある、家具と家電のコーナー」
 宇宙人調べである。そりゃ間違いないだろう。
 
 探す必要もなく、その長身の男子はすぐに見つかった。そいつはポップなロゴの入ったエプロンを着け、家具を乾拭きして回っている。
 朝倉は止まらず近付いて行く。おいおい、作戦会議も何も無しかよ?
「すみません、本棚を探しているんですけど」
 スムーズに斬り込む朝倉。はいはい、と振り返ったそいつは、余程驚いたのだろう、あんぐりと口を開けて固まってしまった。
「朝倉さん」
「私を知ってるんですか?」
「そりゃあ……」
 そこでようやく男子は俺の存在に気付いたようで、ついでに俺と朝倉の腕の位置にも気付いていた。僅かに緩んでいた表情が引き締まる。だからモザイクが欲しいって言ったんだ。
 しかしこりゃ完全に悪者だな俺。そういう計画なんだけどさ。
「君か」
「どうも、偶然ですね」
 酷い偶然もあったもんだ。神も仏も居やしない。
 怒鳴られでもするかと思ったが、そいつは溜息を吹き出すような笑い方をして、
「すまなかったな、気を使わせるような事をして」
 随分と爽やかな顔でそんな事を言った。
「いや、まあ」
「何? 何の話?」
 興味津々、といった様子で朝倉が割り込んでくるが、そいつは告白相手に愛想笑いをして、
「何でもないですよ。本棚でしたっけ?」
「そうなんです、あまり大きくないやつで」
「それならこっちですよ」
 極普通に営業モードへと戻っていた。少々拍子抜けしたが、まあ、丸く収まればそれでいいんだ。
 
 正味10分強で第1ミッションを遂行した俺たちは、もちろん本棚など買わずにホームセンターを後にした。
「次は、北高吹奏楽部の個別練習、1時から3時までね」
 かなり時間があるな。
「それにしても、涼宮さんはちょっと物足りなかったみたいね」
 いきなりの話題転換。ハルヒがどうしたって?
「さっき、棚の向こう側に居たの」
 ……マジか。
「ええ。多分、何かしら騒動が起こるんじゃないかと待ち構えてたんじゃないかしら。……何かイベントを提供すべきだったかな? 転んだ拍子に抱き付くとか」
 頼むから余計な事はしないでくれ。想像頭痛がしてきた。
「そう? 彼の思考遍歴からして、笑って誤魔化してくれる確率が95%近かったんだけどね」
 歩道を歩きながら、朝倉は見てきたような事を言う。
 なんだ、つまり、そういう事前情報込みで、ああいう流れだったのか。
「当たって砕けろを地で行く人みたい。これまでの告白回数は21人、成功率0%、でも特に悩む様子もなく、単なる遊びの一環のようね。クラスでは人気者で男子女子共に付き合いは広いけど、お調子者と思われてる節があって、それが一連の告白を本気と受け取らせないのだけど、本人はそれにも気付いているみたい。これら特徴は、両親の仲があまり良くなかったっていうトラウマが根本にあって――」
「わかったわかった。もういい」
 何が解ったって、自分の得意分野になると饒舌になるという宇宙人特性が朝倉にも適用される、という事が解った。途中で止めると、SF的解説を止められた時の長門のように、朝倉も押し黙る。
 大体、そんな他人の深層心理まで知りたいとは思わん。
 ……ちょっと待てよ。何か、ひょっとして朝倉は、俺に関してもそういう事が解ったりするのか? というかそれはちょっとヤバくないか?
「大丈夫。キョン君のは解らないの。涼宮さんとか、朝比奈さんとかもね」
 なぜ。
「そうね……」
 朝倉は呆れたように笑うと、俺の腕を取って歩き出した。
「それを調べるのも、私や長門さんの仕事なのよ」
 
 駅前から少し離れたハンバーガー屋に入った俺たちは、窓から離れた席に座った。揃って照り焼きセットを注文しており、もちろん金額は折半である。大体、朝倉調査によれば、SOS団内部でのデートでは女子ばかりが奢る事になってしまう。
 そういや、長門に比べて朝倉は小食だな。
「そんなことないわよ? だって、こういう状況で女の子が3つも4つもハンバーガー食べてたら変じゃない」
 気にしなくて良いと思うがな。角の席だし、あまり人も多くない。
「ほんとにそう思う?」
 思わせぶりな微笑み。
 ……まさかハルヒの奴が店内に?
「居ないよ。入口が見えるところでオニギリ齧ってる」
 それなら構わないだろ。
「構うの。まあまあ標準的なデートに準じてる。誤差20%以内が今日の目標だから」
 何の誤差だ、何の。大体だな、今日の目的はそういう事じゃないだろ。手段に対して目的設定するのは勝手だが、そういうのは1人でやってくれ。
「つれないの」
 若干影を落とした笑顔で、朝倉はポテトをパクつく。
 あのな、遊ぶのもいいさ。でもこっちはそれどころじゃないんだが。これから断りに行かなきゃならんのだぞ。
「調べようか?」
 ウーロン茶を啜っていた朝倉が言う。何を?
「あの女の子の事。すぐ調べられるけど」
 朝倉が小さい口でハンバーガーに齧り付く。
「待ってくれ」
「申請すればすぐだよ」
「だから待て」
 朝倉が手を止めて俺を見る。
 そういうのは、あれだ、しなくていい。
「どうして?」
 そうだな、あえて言えば、ルール違反だ。
「ルール違反?」
 目を細めて、朝倉は俺の言葉を待つ。こいつのこの表情は、喜怒哀楽で言うならどれに当て嵌まるのか。朝倉は普段常に笑っているし、稀に怒ったりする事もある。
 だが、無表情だけは殆ど見た事がない。そして、今のこいつは、それに近い。
「まあ、だから俺に任せてくれ。何でも冷静に対処したんじゃ、オニギリ食って張ってくれてるプロデューサーに悪いからな」
 ハルヒを理由に出すと、朝倉は笑って、そうれもそうね、と頷いた。
 まったく。朝倉が無表情なのは、長門が笑うのと同じくらい心臓に良くない。
 
「しかし、制限されてると言う割に、ハルヒが何やってるかくらいは判るんだな」
 長い登校路。何とはなしに言った感想に、朝倉は肩を竦める。
「判らないよ」
 判ってるだろうよ。さっきから。
「聞いてるだけ」
 聞いてる?
「涼宮さんを見張ってる長門さんから」
 ……いつのまにか複雑な事になってたんだな。
 カメラの前の役者じゃないが、そこはかとない緊張感を覚えつつ、俺たちは本日の第2ミッションの現場へと赴いた。
 要は北高である。
 俺に手紙を差し出した彼女は、吹奏楽部の部員で、今は個別練習の時間だそうだ。担当はフルート、普段いつも中庭で練習をしているらしい。性格はおとなしく、誰からも好かれる、とか。
 ……つーかコレも随分と詳しいな。古泉に頼んだんだが。
「言ってくれれば、調べたのに」
 いやいいから。人のプライベートをあまり覗いちゃいかん。
「そう? いいの?」
 俺を見ずに訊き返す。
 つまらない、のだろうか。この朝倉は。
 
 中庭は、新館と旧館の間にあるスペースの事だ。文芸部室からも見下ろせる。そこそこ大きな木が数本植わっている以外には何も無く、せいぜい昼飯の腹ごなしに散歩するくらいしか利用価値の無い空間だ。
 基本的に平日活動のSOS団員は知る由も無いのだが、冬以外の日曜の昼過ぎ、彼女は必ずそこでフルートを吹いている。芝生に譜面を置き、熱心に演奏していたかと思うと、突然呆けた顔で空を見上げたりしている。
「可愛い子ね」
 隣で朝倉が呟いた。そうか?
「折角だから付き合っちゃえばいいのに」
 何がセッカクなのかは知らんが、俺に身の破滅を勧める気か。
「そうしたら、涼宮さんがヤキモチ焼いてくれるかも」
 そりゃまた喉に詰まらせて死にそうなモチだな。
「窒息死なんてマシな方よ」
 笑顔でそういう台詞を言うな。なんか今日おかしくないか? 朝倉。それではまるで――
「あ、休憩するみたいよ」
 見れば、彼女は立ち上がってこちらにやって来ようとしていた。俺たちがどこに居るのかと言えば、校舎の影から中庭を覗いている格好である。多分ハルヒも背後のどこかに隠れているのだろう。
 おいおい、どうする?
「腕、組む?」
 朝倉は腰に手を当てて輪っかを作る。
 しかしな、そういう劇薬混じりの手法はリスクが高過ぎる。彼女が超悲観論者だったりしたらどうするつもりだ。
長門さんが居るから大丈夫よ」
 そういう問題じゃねえ。
「調べようか?」
 だからそれは――
「あの」
 目の前に、爆弾魔が立っていた。目を丸くしている。まあ当然だろう、こんなところでバッタリ出くわせばな。
「こ、こんにちは」
 彼女は両手に抱えたフルートと連動して挨拶をした。
 正直、何も思い浮かばなかったので、頭を下げておく。
 ……幾許かの時が流れた。爽やかな天気にも関わらず、半径3メートル程が凝固してしまったかのような空気に覆われている。
キョン君」
 朝倉の声に、詰めていた息を吐き出す。何事にも動じない朝倉の存在に助けられているのは否定できないな、これは。
「ええとだな、あの手紙の件なんだが」
 フルートの彼女は小さく頷いた。
「はい、どうでしょう……」
 俺もシミュレートしなかった訳じゃない。思ったよりバタバタとした展開になってしまったが、極めて平静を努めて、俺は言った。
「別に誰かと付き合ってるという訳では無いんだが、君の事は知りもしないし、今日のところは、あれだ、申し訳無いんだが……」
 喋る度にしどろもどろになっていく感覚が実感できるのが情けない。つーかこういうのは苦手なのだ俺は。ハルヒはどこに居やがる。そこの垣根の裏か。笑いたければ笑えチクショウ。
 そんな風に、俺が独りで内心悶えていると、
「そう、言ったんですか?」
 フルート彼女が不安げに訊いた。
「古泉くんが?」
 
 
 ――早く思索を行う際には、人というものは動かなくなるものだ。
 その発言の真意について、お馴染み慣性の法則に従っていた俺たちの仲で最も早くスタン状態から脱したのは、
「ぷっ………く、くくくく、むぐ、……」
 当然、必死に笑いを堪えている草むらの中の奴である。しかし堪えきれなくなったのか、顎が外れて死んでしまえという勢いで、ハルヒは中庭に笑い声を響かせた。木を叩くな木を、指を差すな指を。吉本見にいったオバちゃんだってもう少し遠慮するぞ。
 一方、突如として出現した爆笑草女の姿に怯えた様子のフルート彼女は、俺と朝倉の顔を交互に見て、小首を傾げた。
 
 その後。
 手紙を渡した相手が俺であった事、そして古泉に改めて返事をするように伝える事などを話してから、俺たちはようやく学校を後にした。彼女は間違えた事をしきりに謝っていたが、俺からすれば間違いで済んで一安心というところである。
 ハルヒのバカは臆面も無く笑い続けていやがったが、俺が気合を入れて睨んでやると、笑うような喜ぶような、あいつにしては優柔不断な表情をして肩を竦めた。そして必死に説明する俺たちを見てしばらくニヤニヤしていたかと思うと、何とも軽快な足取りで長門と帰っていった。
 と言うか、いつのまにか長門も居た。やはり朝比奈さんや古泉もどこかで見ていたのかもしれないな、これは。
「疲れてる?」
 並んで歩いていた朝倉が、覗き込むようにして俺を見る。
 そりゃ疲れもする。くたくただ、主に精神面が。
「おつかれさま」
 にこりと笑う朝倉。癒されるような、そうでないような、酷く裏表の読めない笑顔だ。
「でも残念だったね。ラブレター、キョン君宛じゃなくって」
 むしろ安心したさ。断る必要も無くなった事だし。
「でも可愛い子だったよね?」
 そりゃ容姿は良いかもしれないが、むしろ本題は内面だからな。
「内面ね……そういうものなのかな」
 何が言いたいのやら。
 朝倉は、それからしばらく口を閉じていた。自動車が行き交う坂道の歩道に、無言のまま平行線を刻み行く。
 イツモ静カニ笑ッテイル、を地で行く朝倉にしては、今日は少々様子が変であるような気がしていた。これが、朝倉の振れ幅なのだろうか。長門が稀に意固地になったりするように、多分、朝倉にもそういうバイオリズム的な揺れがあるのかもしれない。
「ね、キョン君」
 朝倉が歩いたまま、俺に笑顔を向けた。
「恋人のフリだったよね」
 そうだな。もうお役御免だが。
「それまだ続いてる?」
 終わったろ。
「でも今日限定って、涼宮さんが言ってたよね」
 あのな、告白に断りを入れるのが今日のテーマだったわけで、その任務は達成されただろ。だからもういいんだ、それは。
「お願い」
 朝倉が立ち止まって、俺の袖を掴む。
「お願いがあるの」
「……なんだ」
 仕方なく俺は足を止め、振り返った。本当はすぐに立ち去るべきだったのかもしれない、が。
 あの日、朝倉のナイフを避けた俺の奇跡的な反射神経は、その唐突な出来事に対処できやしなかった。目前に迫った朝倉の顔と、続いて押し付けられた唇の感触だけが、一瞬で思考の大半を埋め尽くした。
 なんだこりゃ。
 まさに不意打ち。
 ナイフよりタチが悪い。
 道路に車は無い。歩道に人影も無い。偶然らしい。この世は不条理に溢れている。
 俺の背後が塀なのを良い事に、朝倉はじっとしていた。朝倉は目を見開いている。3センチも無い隙間で、俺と朝倉は見詰め合うというよりも、睨み合っていた。
 不意に朝倉は身を離した。
 唇に手を当て、半ば呆然としている。つうかその反応はおかしくないか?
「ね、キョン君から接吻してくれないかな」
 ――凄まじく戸惑って朝倉はそう言った。照れて、とか、悲しそうに、とかそういう反応じゃない。場違いな日本語を採用する程に、笑顔が消えていた。いつも転写されたかのようにそこにあった朝倉の笑顔がだ。
 しかし、そんな事を気にする暇も無い程に俺の方も深刻だ。辛うじて持ちこたえた俺ではあったが、いつの間にやら頭痛が酷い。なんだこの展開。
「無茶を言うな」
「ダメかな」
 あのな、恋人でもない――いやだから、本当の意味でそういう関係でもない、好きな訳でもないんだから、それは無理だ、不可能だ。
「でも好意を持っていなくても出来るって」
 だからそりゃどこのドラマだ。こんな日本に誰がした?
「好きって何?」
 そんなことも解らないのか。今日2件も告白を断っておいて。FBI顔負けのプロファイリングすら出来るんだから、その得意の情報何とかで計算でもすればいい。
 大体こんなところをハルヒに見られたらどうするんだ。連中が帰って間も無いんだぞ。それこそエンドレスマーチじゃ済まない可能性ってやつだ。
「わからない」
 朝倉が漏らした言葉は、つららとなって地面に突き立った。
 思わず口を閉じる。
 初めて耳にする音階だった。今のは誰の声だ?
 
「ごめん、冗談」
 しかし俺には思考どころか動揺する暇すら与えられなかった。朝倉は少々行き過ぎた微笑みを顔に張り付け、有無を言わさず俺の腕を取った。ぐいぐいと坂道を引っ張って行く。高いトーンの声はまさに朝倉のものだ。
 ――朝倉だよな?
「いいじゃない、ちょっとくらい。それに忘れたの? SOS団という系に入力を与えて出力を計測するのも私の仕事。涼宮さんだって、これくらいで世界再構成なんてしないわ」
「だからってな……」
「平気、安心して。涼宮さんはもう駅前近くまで言ってる。どこか買い物に行くらしいね。朝比奈さんも掴まって、長門さんと3人で一緒にいる。古泉君は先に帰ったみたい」
「朝倉、わかったから引っ張るなっ」
 仕方ない、という具合に腕を弛める朝倉。アームロックから脱出した俺は、ひとまず溜息をついた。
 しかしな、あまり褒められたものじゃないぞ。ハルヒの力がどんなものか、朝倉だって理解してるだろうに。
「そうね。ま、あまり好き勝手に動くとまた長門さんに怒られちゃうからね」
 まったくだ。少し自重してくれると助かる。
 それに朝倉はツッコミ側なんだ。4対2の構図を崩さないでくれ、疲れるから。
「じゃあ、私とキョン君は相棒ってことで、いいのかな」
 なるほど相棒ね。そこまで大袈裟なものじゃないが、負担を多少なりとも軽くしてくれるなら、歓迎しない理由など無いな。
 それに、もう俺には、朝倉の居るSOS団が平常にしか見えない。ああ確かに朝倉の言った目的は達成されているさ。内包するエネルギー総量は明らかに増加しているにも関わらず、SOS団SOS団のままでしか無いんだから。
 だから、このままにしておいてくれ。騒動の度に疲労するのが俺だけという不条理を不憫に思うのならな。

朝倉涼子の誘惑11
「ねえキョン。あんた今日おかしくない?」
 げに恐ろしきは女の勘、と言うべきか。休み時間に入った直後、他愛も無い会話の隙間に、ハルヒは堅牢なピーカブーを打ち抜くべくストレートパンチを捻り込んできた。さて、俺は何か変な挙動を取っただろうか?
「さぁ、なんとなく」
 この"なんとなく"が当たるのが涼宮ハルヒという特性だ。バランス破壊キャラである。
「なんもねーよ。あえて言えば腹は減ってる」
「あっそ」
 今日のハルヒは普段より大人しい。こいつこそ腹が減ってるのではなかろうか。そう言えば以前、いきなり巨大な弁当を持ってきた事があったが……あれは何が原因だったっけ。
「ねえ、キョン。あんたさ、」
 おかしくない。
「違うわよっ。その……あれよ、今度の日曜、探索会だから」
 いきなりだな。そんなのいつ決まった?
「今よ今。日曜朝10時に駅前集合、忘れないでよね」
 言うだけ言って、つまらなそうに顔を背けるハルヒ。世界が何か異常動作でも起こしていないと退屈であるらしい。
 生憎、俺は古泉のようにイベントを率先して企画するような変態的趣味は持ち合わせておらず、今年の七夕には世界平和と書くつもりであるくらいだ。
 曇り空を眺めているハルヒが完全に無反応になり、しばらくして教師が昼飯前の怠惰な授業を繰り広げるべく現れてからようやく、俺は椅子を正面に座り直した。
 喋る事はいろいろあった気がするのだが、いまいち頭の整理がつかないのは、やはりこの紙片の影響に違いない。
 この、見覚えのある文面の。
 
 昼休み。部室に顔を出すと、都合良く長門だけが本を読んでいた。
「よう、長門
 長門はこちらを一瞥する。何と訊ねるべきか悩んでいると、長門は僅かにうなずいて、
「これ」
 仰向けに開けられた右手に、灰色の煙で出来たマリモのような物体が乗っていた。これはなんだ?
「鍵。イメージをビジュアル化した」
 具体的に頼む。
「これは朝倉涼子の行動を制限している枷を外す鍵。私が預かっている。これがここに在る限り、朝倉涼子は行動、発言、思考等に強力な制限を受ける。出来るとしても、」
 長門は俺を見上げた。
「転んだ拍子に拘束したり、食事を作成したりする程度」
 
 放課後。谷口との用事があると言って、俺はひとり部室に残っていた。
 長門、朝比奈さん、古泉は連れ立って下校し、朝倉は始めから部室には現れなかった。ハルヒは珍しく遅くまで部室でパソコンを弄っていたが、俺に部室の鍵を投げ渡すと不機嫌そうに帰っていった。
 何に怒っているのやら。文化祭には早過ぎると、あの連ドラだか特撮モノだか分からん撮影を止めさせたのが悪かったのだろうか?
 時計の針が5時半を過ぎ、俺も部室を後にする。
 暦は3月、外はもう暗い。頼りない蛍光灯の明かりを潜り、暗い階段を降り、黒く染まった空を廊下から眺め、それでも5分とかからず1年5組の教室へ辿り着いてしまった。
 悪い冗談だ。ドアを開けると、想像通りの光景が待ち受けていた。
「入ったら?」
 朝倉がいつかのように立っていた。
 平然と、その灰色の部屋に足を踏み入れる。やっぱりお前か。
「そ。意外だった?」
 いいや、まったく。
「だと思った」
 朝倉は俺を見ず、両手を後ろ手に組んで机の間をゆっくりと歩き回る。
 ――緊張しているのか? ふとそう見えた。いや、錯覚かもな。現にあいつは平然としている。
「ちょっとね、聞きたい事があって」
 日本経済についてか?
「人間らしい、ってどういう事?」
 なんだそりゃ。
「よく言うよね。人間らしい言動、人間らしい表現。でもさ、具体的にどんなモノがそれに該当するの? 喜怒哀楽がそう? けど、犬や猫にだってそれは在る。もちろん、」
 朝倉は自らの胸元に手を当て、
「私にも」
「さあな」
 俺は心底そう言った。
 そういう哲学とか形而上学っぽい話は古泉にでもしてやればいい。大喜びで飛びついてくるだろうさ。
「違うの。もっと理論的な話」
 さらに古泉が好きそうな話だ。
「たとえば、キョン君。あなたは、身近な人間で、最も人間らしいと思うのは、誰?」
 訊ねられて、俺は真っ先にハルヒの顔を10通りほど思い浮かべた。なぜハルヒの顔が思い浮かんだのか、その理由は解らない。だが、これは多分正解だ。自己採点で申し訳ないが100点満点で120点くらい付けても良さそうだ。
 しばらく考えるフリしていた間、教室はまるで外界から切り離されたように、静寂の中にあった。だがあの時とは違って、窓も廊下もまだ有る。
 朝倉は視線を切ったまま、平坦な声で言った。
「私はね、キョン君や涼宮さん、SOS団のみんなと一緒に居たかった。長門さんがそうしたように。だからね、私はあなたにキスしてみたの」
 説明は続く。
SOS団のみんなは私に良くしてくれたでしょう。キョン君はよく気遣ってくれたし、涼宮さんは話し相手になってくれたの。
 長門さんがSOS団にこだわる理由も、わかった。古泉君や、朝比奈さんもいい人。一緒に買い物に行ったし、ゲームもたくさんやったよね」
 まるで子供がそうするように、朝倉はこれまでの他愛もない出来事を羅列する。
「まだSOS団に入って少ししか経ってないけど、いろんな事を体験した」
 そして朝倉は、今日初めて俺に微笑んだ。
 
「でも、どうしてだろ。私は、みんなの事が好きじゃない」
 
 ああ、そうか。
 偶然解いた知恵の輪を元通りに復元した時のような感覚。理解はできないだろう、俺が人間であるうちは。でも、こいつが――朝倉が何を考えているのか、その一端を掴む事は出来た。そう思いたい。
「どうして? 私、おかしいよね?」
 さあ、どうしてだろう、なんて言える筈が無い。
 でもな朝倉、あの長門だって今の長門になるには1年もかかってるんだ。ちょっと性急すぎやしないか?
「あーあ、私がバックアップだからなのかな」
 そんな事は無いさ。
「あのね、私、考えてみたんだけど、インターフェイスの能力を全部無くしてみたらどうかなって思うの」
 人には無い能力のことか?
「ええ、そう」
 そんなに簡単な話だろうか。……尤も、お前だって気付いているんだろうが。だからこそ、結果が見えない行動を取ろうとしている。俺を殺そうとした時も、そうだったもんな。せっかちなんだよお前は。
 だろ、朝倉。
 
 30秒もそうしていただろうか。朝倉は、蛍光灯の並ぶ天井を見つめていた。親玉と話し合いでもしているのだろう。実際に言語を介しているとは思えないが。
「期間限定で許可が下りたわ」
 期間?
「ええ、朝倉涼子個体基準で240時間。私は観察と連絡が第一の存在意義だもの、あまり長時間に渡ってそれを滞らせる訳にもいかないのよね」
 何が変わるんだ?
「ヒトの擬態をするだけになるわ。あくまで擬態で、実際にはやっぱりインターフェイスなんだけど」
 それじゃ見た目は同じなんだな。
「中身も同じよ」
 朝倉は笑った。
 そして目を閉じ、目を開け、
「これを」
 差し出した手のひらに、あの長門が見せたマリモのような物体が乗っていた。
「預かっていて欲しいの。私が持っていたら意味が無いから」
 長門は鍵だと言った。これは、元々弱かった残りの能力を封印する為のものなのだろうか。
 しかし、俺でいいのか?
「返して欲しい時は言うよ。でも、無くしたりしないでね? 私まだ保護観察だから」
 そう言って、朝倉は無邪気に小さく舌を出す。
 渡された灰色のボールを受け取った瞬間、硬式球ほどの大きさだった似非マリモは急激に体積を失い、硬い感触を得て空間に固着した。要は急に形が変わったってことだ。
 古い錠前に使うような、無骨で小さい、まさしく鍵の形。
「お願いね」
 そう言って手を合わせる朝倉の姿が、いつかの風景と重なって見えた。
 
 校舎を出る頃には空も暗くなり、街灯がアスファルトを丸く照らすようになっていた。俺は朝倉と連れ立って学校を出ると、いつものように、いつもの道を下って行く。
 朝倉は俺の半歩後ろを歩いていたが、何故かしきりに周囲を気にしていた。あちこちに視線を動かし、訝しげな俺の表情を見つけて苦笑する。
「ごめんなさい。これじゃ変ね、私」
 どうしたんだ?
「環境情報が入ってこないから、危機管理に不備がね。情報接続と、近未来行動予測ルーチンと対物理保護もカット、というか起動できないし、特に視界が悪くて……街灯ってどうしてこんなに少ないのかしら」
 まあ確かにこの辺りは街灯が少ないとは思うな。ちなみに文句を言うなら宛先は市役所だ。
「これじゃあ突発的な事象に対処できない。ヒトはこういう時どうす――きゃぁっ!?」
 横を向いて喋りながら歩いていた朝倉が、何かに蹴躓いてバランスを崩す。咄嗟に差し出した俺の右腕に、朝倉は両手でしがみ付いた。大丈夫か?
「うん」
 ぽかんとしつつも、朝倉は腕をぎゅっと掴んで、胸に抱き寄せる。
「……ありがとう」
 そして、少し俯いた。
 照れるとか悲しむとかではなく、単純に不思議がっている。なるほど、これはひょっとすると朝比奈さんをドジだの何だのと揶揄できない可能性すらあるかもな。
 ……腕に当たるふくよかな感触を脳内で誤魔化しつつ、そんな風に考えていると、
「え?」
 朝倉が俺の腕を放して夜道を振り返った。
 釣られて俺も見るが、特に何も無い。ひとつ後ろの街灯がぼんやり浮かんでいるだけだ。しかし朝倉はまだ見ている。一体どうしたよ?
「う、ううん。誰か居たような気がして」
 宇宙人的能力を消した変わりに霊感でも身に付けたか? 俺には何も見えんが。
「それは無いと思うけど。……ね、お願いがあるの」
 ……待てオイ。
「違うよ。もうあんなことはしないから」
 朝倉は苦笑しつつも、右手を差し出した。
「手、繋いで欲しいな」
 いや、あんまり変わらん。
「いいじゃない。恋人じゃなくても手くらい握るでしょう?」
 また統計か。マジョリティなんてつまらん、俺はマイノリティに生きるんだ。
「えいっ」
 宇宙人的能力など無くとも、朝倉は意外と素早かった。俺の手を捕まえると、強く握ってくる。
「あのな……」
「さ、帰ろう? もうだいぶ遅くなっちゃった」
 率先して先を行く朝倉。俺は仕方なしに歩調を合わせて、その隣に並んだ。
 なかなか離してくれそうに無い朝倉の手は、やはり、まだ寒い夜空のように冷たかった。

その5へ続く